ボランティアは偽善と思っていた
ボランティアを偽善と思う場合があります。
その理由として挙げられるのはまず、他人に奉仕することは、かっこつけて自分をよく見せようとする行為とみなされるということです。
街角で、募金運動を見ると、協力したいという気持ちがわきながらも、偽善と思われるのは嫌だという気持ちがわく場合があります。
そんな時は、自分の気持がコントロールできず、もやもやしてしまうでしょう。
哲学者のカントはこのように言っています。
「道徳的価値ある行動は、義務感から行われるものである。」
これは、言い方を変えて、分かりやすく言いますと次の様です。
「仕方ないから、やっているだけ。」
日本の学校教育も自分のためだけにやるのは良くないという教えです。
だからといって、本当に自己犠牲がすばらしいのでしょうか。
太平洋戦争中の神風特攻隊はどうでしょうか?
自己犠牲の悲劇と言ってもいいものですから、決して肯定できません。
ボランティアに取り組む人は幸せそう
ボランティアに取り組む人が幸せそうに見えるのは、なぜでしょうか。
そもそも、ボランティアに取り組む人は、自愛の精神があるからです。
自愛とは、自己肯定愛のことになります。
ボランティアに取り組むのは、人の役に立つことが、自分の幸せになっているからなのです。
ですから、ボランティアは偽善ではありません。
この自愛の精神、自己肯定愛が皆を幸せにするのです。
確かにカントの言うように、義務的に取り組む人もいるかもしれません。
でも、そういう人だけではないでしょう。
大半の人は上記に書いたように自愛主義ではないでしょうか。
人の役に立っているということで、自分も幸せなのです。
そう考えますと、ボランティアに取り組む人が幸せそうに見えることも、納得がいくでしょう。
ボランティアの意義は幸せになる事
ここで、ボランティアの意義が何であるか、説明が付きます。
ボランティアの意義は、皆が幸せになる事なのです。
人類は生きるために仲間、村、町、国家を作りました。
他者との共存が生きる術だったのです。
ある程度、自分の利益を我慢して人に幸せを与えることで、協力体制ができ、生き残る事ができたということになります。
すなわち、ボランティアの精神は生き残るための相互扶助と考えられるでしょう。
生き残るためのDNAに刻まれた種の保存の法則と考えるとわかりやすいです。
自己犠牲ではなく、自分が生き残る術でしょう。
そう考えると非常にシンプルです。
ボランティアで、皆が幸せになれるということも説明できます。
つまり、人につくせばつくすほど、自分が幸せになれるのです。
これは、ものすごいことでしょう。
このように、どんどん、人の役に立って、皆で幸せになれるなら、この上ないことです。